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2011年11月23日

百三歳、なお学び続ける

勤労感謝の日に、ぴったりのお話と思い・・
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■「致知随想」ベストセレクション <その17>
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  「百三歳、なお学び続ける」
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       佐藤文悟(さとう・ぶんご=元歯科医) 


               『致知』2007年7月号「致知随想」
               ※肩書きは『致知』掲載当時のものです
…………………………………………………………………………………………………


今年、齢百三になる私を、一人の歯科医が訪ねてきた。
娘が今度、歯医者になりました、と言う。

私はそれはめでたいと言いながら、こんなことを述べた。


「お嬢さんをあなたより一段高いレベルの歯科に勤めさせ、
親のことを批判しつつ彼女が正しい道を歩めるよう、
そして本人には悟られぬよう
遠くからそっと見守ってあげてください」


すると後日、そのお嬢さんが挨拶に見えた。私は


「あなたはよい職業を選ばれた。
 職場へ入ったなら、自分の師と仰ぐ先生の
 生活態度を問うのではなく、仕事に臨まれる姿勢、
 それを精一杯学んでください」
 

と言い、餞の言葉とした。

人の仕事ぶりというものは、
上の人も見ていれば、下の人も見ている。
一人でしているような物事でも必ず誰かが見ている。
時には喜びに頬を緩めることもあるだろう。
ただし、仕事の手だけは決して決して
最後まで緩めてはいけない。私はそう自分に言い聞かせてきた。


         * *


明治三十七年、新潟の田舎に生まれた私は、
生来学問好きな性質で、勉強はいくらしても倦むことがなかった。
しかし家は貧しい農家で、中学へ進学できる望みなどない。

担任の教師が、この子を進学させてやってくれと
頼みにいらしたこともあるが、父は


「我が家より格式のある御宅でさえ中学へはやっていない。
 うちの息子だけやるのでは筋が通らない」
 

と聞く耳を持たなかった。
それでも学問に対する欲求はやみ難く、
ほぼ家出同然の状態で故郷を後に上京した。

母はそんな私のために上等な着物を織り、
出掛ける前にそっと渡してくれた。
私が実業家の家へ書生に入ることができたのはこのためである。
後になって奥様から


「まだ幼くて暮らしも豊かには見えないのに、
 着物だけはずいぶんと良い物を着ている。
 きっと愛情深く育てられたのだろう、と思った」
 

という話を聞いた。


入学した開成中学では学費を自分で稼ぎながら、
懸命に学業に励んだ。
進学したのは日本大学歯学部の夜学で、
昼間は仕事をしながら深夜まで黙々と勉強を続けた。

貧乏であっても学問に食らいつき、
どうしても一人前にならねばならぬと覚悟をすれば、
それなりにモノにはなるものらしい。

尊敬する川合渉校長から
「日大で最高の勉強家だ」
とお褒めの言葉をいただいたほど、夜も寝ずに勉強した。

わき目も振らず一心に学問に取り組んだのが
良かったのだろう。
治術の実習では、私の元へ診察を申し出る患者と
同級生が後を絶たず、やがて日大の総代を務めることになった。

卒業時には褒美として、
大の大人が三人がかりでも動かせないような
立派な診療台をいただき、生涯をこの仕事に捧げようと決意した。

家が貧しくなかったなら、
私はあれほどまで熱心に勉強に励んだだろうか。
それを思う時、貧乏であったことが、
あるいは私の人生を幸せへと
導いてくれたのではないかという気がするのである。


         * *


卒業後、縁あって東京の南千住に開業し、
戦後は疎開先の横浜でそのまま開業することにした。
その後、横浜にあるアメリカの陸軍病院で
隊長より直接単独で臨床学とそれに伴う学問を教わった。

そのために中学時代の英語の教科書を
引っ張り出してきて一から英語を勉強し直した。

その後、川崎でもう一度始めた診療は七年前、
九十六の歳になるまで休むことなく続いた。

学校で教わる学問は頭だけのこと、
患者の皆様が私を歯科医として、
また一人の人間として今日まで育ててくださったように思う。


いまから数十年前のことである。
親しくさせていただいた尊敬する先生方と
歯科医の国際学会を結成した。

私は結成当初から長く事務局長を務めていたが、
ある時周囲から会長に推されたことがあった。
大変有り難いことだと思ったが、
私はいくら言われても決して首を縦には振らなかった。

家内はそんな私の行動を訝しく思っていたようだが、
私は博士号もない一介の町医者で、
学校も夜学しか出ていない。

周りの面々は代々続く歯科医の生まれで、
大学などで教鞭を執っている者ばかり。
そんな中で私が会長職を務めて誰が快く思うだろう。

だがこれを引き受けなかったがために、
私は諸先生方から支持を受けることになり、
もめ事や争い事は一切起こしたためしがなく、
また先輩方からもずいぶん可愛がっていただけたように思う。

出過ぎず、引っ込まずというのは、
世渡りをしていく上で大切な心得の一つではなかろうか。

歯科医を志すからといって、
何も特別な学問をする必要はない。
技術も特別に人より優れていなければならぬということはない。

ただし、学ぶべきことは当然怠りなくやるべきであるし、
その知識や技術を身につけたなら、
どこまでも忠実に守り通していくことが必要である。

引退後、私は東大で物理学を専攻する孫に触発され、
量子力学の勉強を始めた。

「九十六の手習い」など聞いたこともないが、
学ぶ喜びや知る喜びに年齢は無関係だと思う。
私には、若い人に偉ぶったことなど一切言う術がない。
できるのはただ、若い人から学び続けること




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すごいですよねえ・・・
マネは出来ませんが、このお話だけは、そばに置いておきたいと、
転載させていただきました。  

Posted by 未来 at 00:07Comments(0)